わたしは柔和です

最近のコメント

     辞書に、「柔和とは従順である」とあります。イエスが「わたしは柔和です」と言われたとき、これは何を意味するのでしょうか? これはイエスが常に御父の意志を行なわれたということです——常に神の愛に従順でした。イエスは救いに来られ、この目的のため、私たちの堕落した人間性を死から引き上げようとして、この人間性を従順にご自分にまとわれて、最大な者が最小の者となり、すべての人のしもべとなられました。

     「マタイ福音書」第21章には、「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ロバに乗って」とあります。この世では、王というと壮麗さや権威を連想しますが、王の王であられるイエスはご自分の都に、柔和で、ロバに乗って入られます。人々は、「ホサナ、いと高き所に!」と叫びますが、その後、エルサレムに入ってから、イエスが捕らわれると、そのユダヤ人たちは、「十字架につけろ、十字架につけろ!」と叫んだのです。イエスは祈られました——「父よ。……この杯をわたしから取り除いてください。しかし、わたしの願いでなく、あなた(の願い)を」(マルコ 14・36)。最後まで、イエスは神の愛に従順でした——主は柔和そのものなのです。

     イエスから学ぶまで、私たちは柔和ではありません。私たちのうちにある自我が、主の教えどころか「柔和」という言葉さえ嫌います。自我は自分の欲望に仕え、他人のことなどお構いなしです。自我は自分の道を行こうとします——富・娯楽・名声——しかも、自己愛はしばしば狡猾であり、世間という衣装の中に隠れます。また、すべては幸福のため、という言い訳の中に——しかし、その結末は苦々しく、死にすら至ります。

     柔和となるため、私たちは主に仕えなくてはなりません。その教えに従順にならなくてはなりません。自我に背を向け、イエスのほうに向かわなくてはなりません。こうして、私たちは徐々にイエスを愛し、その愛のうちに、幸福を強く味わいます。同じく、隣人も愛し始め、その人の幸福が自分自身の幸福のようになります。こうして、私たちは柔和となります——イエスのしもべとなれるのです。このお方から私たちの力のすべてがやって来ます。

        祈り
    主よ、御顔をあなたのしもべの上に輝かせ、
    あなたの戒めを私に教えてください。 
               

    詩篇 119・135

      ブックレットシリーズ No.5『わたしのところに来なさい』より

      

    タイトルとURLをコピーしました